皆様、今日は建国記念の日です。
この日はもともと紀元節(きげんせつ)といって、神武天皇御即位の日です。
紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地では神武天皇陵の遙拝式が行われていました。
それではなぜ、「紀元節」から「建国記念の日」へと変わったのでしょうか。
第二次世界大戦後の1947年、片山哲内閣は、日本国憲法に紀元節を「建国の日」として盛り込んでいましたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって削除されてしまいました。
「建国の日」が削除されたのに伴い、宮中の紀元節祭も中止となりました。
その後、「紀元節」の復活については賛否両論あり、法案の提出と廃案が繰り返された後に、国民の祝日に関する法律の第2条で、建国記念の日の趣旨を、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定し、1966年12月、佐藤栄作内閣は、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日としました。
こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となったのです。
しかし、昭和天皇は紀元節祭が中止された後も臨時御拝という形で御親拝を続けられており、このことは今上天皇にも引き継がれています。
私は、今日「建国記念の日」に国家の紀元を学ぶことが改めて必要だと思います。
最後に神武天皇が橿原市に都を開かれる際に発せられた「樫原建都の令-八紘為宇の詔」をご紹介致します。
<樫原建都の令-八紘為宇の詔>
我東(あれひむがし)に征きしより茲(ここ)に六年となりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を賴(かがふ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊(ほとりの)土(くに)未だ淸(しづまず)、餘妖(のこりのわざわひ)尚こはしと雖(いへど)も、中洲之地(なかつくに)復(また)風塵(さわぎ)無し。
誠に宜しく皇都(みやこ)を恢(ひらき)廓(ひろ)め、大壮(みあらか)を規(はかり)搴(つく)るべし。
而(しか)して今、運此(ときこ)の屯蒙(わかくくらき)に屬(あ)ひ、民心(おおみたからのこころ)朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟(こ)れ常となれり。
夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義(ことわり)必ず時に隨(したが)う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何(なむ)ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。
且當(またまさ)に山林(やま)を披(ひら)き拂(はら)い、宮室(おほみや)を經営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて寶位(たかみくらゐ)に臨(のぞ)み、以て元元(おほみたから)を鎭(しづ)むべし。
上(かみ)は則(すなは)ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまふ徳(うつくしび)に答え、下(しも)は即(すなは)ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養ひたまふ心(みこころ)を弘(ひろ)めむ。
然して後に六合(くにいのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と爲(せ)むこと、亦可(よ)からずや。夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南橿原(たつみのすみかしはら)の地(ところ)を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)とと爲(せ)むこと、亦可(またよ)からずや。
夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南橿原(たつみのすみかしはら)の地(ところ)を觀(み)れば、蓋(けだ)し國(くに)の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。
樫原建都の令-八紘為宇の詔から、気になったニ節。
先ずは、
「苟(いやしく)も民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。」
天皇は国民のことを「大御宝(おおみたから)」と呼び、国民を幸福にすることこそ天皇の務めと考えておられた。以来、歴代天皇は覇権ではなく徳をもって国を治めてこられたわけです。今から二千六百年も前に現代民主主義の原点とも言える民利政治を謳われていたことに驚きます。
もうひとつは、
「八紘(はっこう)を掩(おほ)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(よ)からずや。」
天下に住む全てのものが、まるでひとつの家になったように温かい結びつきを実現させようということです。
現在進行中のグローバル金融資本主義、或いは日中・日韓における様々な問題について議論をするにあたり、神武建国の理念に立ち返ることで、格の違う外交を展開していかなければならないと今こそ改めて考えさせられる毎日です。
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建国記念の日
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